神奈川県鎌倉市:徳川家ゆかりの寺院:鎌倉薬王寺のご朱印

三代将軍徳川家光弟・徳川忠長供養塔:蒲生家ゆかりの寺院:鎌倉薬王寺(かまくらやくおうじ)

鎌倉の扇ガ谷の地に徳川家・蒲生家ゆかり寺院である鎌倉薬王寺があります。
鎌倉駅西口からは海蔵寺岩船地蔵堂が目印です。

亀ヶ谷坂切通に向かう途中に鎌倉薬王寺はあります。

由緒

かつては梅嶺山夜光寺と称し真言宗の寺院でしたが、
永仁元年(1293年)日蓮の弟子日像により日蓮宗改宗されました。
寛永年間(1624年~1645年)に、
徳川忠長の正室である松孝院(父は織田信雄の四男・織田信良)寄進により、
諸堂が造営されました。

徳川忠長(とくがわただなが):江戸幕府三代将軍・徳川家光の弟

徳川忠長

駿河大納言と呼ばれる徳川忠長は、
慶長十一年(1606年)江戸幕府二代将軍徳川秀忠の三男として生まれ、
は秀忠の正室江(ごう)で、三代将軍徳川家光です。
母に溺愛され、兄・家光とは不仲から確執を深めていきました。
寛永三年(1626年)母の死去とともに乱行が目立つようになり、
領地内にある静岡浅間神社では殺生が禁止されている中の猿狩りや、
家臣への手打ちなどで家光が激怒し、甲府へ蟄居を命じられました。
寛永九年(1632年)父・秀忠の死去後、幕命により改易となり、
高崎へ逼塞(ひっそく)となりました。
寛永十年(1633年)高崎大信寺切腹しました。享年二十八でした。

徳川忠長供養塔

徳川忠長の正室である松孝院により建立されました。

参道

参道の先本堂が見えます。

本堂

本堂にある日蓮大聖人尊像は、江戸幕府十一代将軍徳川家斉の代に幕府が施主となり、
雑司ヶ谷に建立された感応寺にありました。
天保十二年(1841年)家斉の死去に伴い、
老中水野忠邦によって感応寺廃寺を命じられ取り壊された後、
比企谷妙本寺保存された後、鎌倉薬王寺奉安されました。

本堂裏手には伊予国松山藩主蒲生忠知(がもうただとも:蒲生氏郷の孫)の、
奥方と息女の墓所もあります。

さしのべさんと叶水(かのうすい)

左は「さしのべさん」と呼ばれる『毒消し薬王菩薩』です。
江戸時代には格式高く庶民が参詣できないお寺でしたが、
一隅には誰もがお参りできる『毒消し薬王菩薩』あり、
「さしのべさん」と呼ばれていました。

右側の水は叶水(かのうすい)と呼ばれ、悩みや願いを紙にしたため
洗い流すことで悲願成就の道が開けるそうです。

観音堂

本堂後ろの階段を登ると観音堂があります。

鎌倉薬王寺のご朱印

鎌倉薬王寺:ご朱印

寺院情報

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