群馬県高崎市:徳川忠長墓所:大信寺のご朱印

江戸幕府二代将軍徳川秀忠次男:駿河大納言忠長卿御廟:大信寺(だいしんじ)

由緒

戦国時代の後期、信濃国の国衆である保科正俊三男
内藤昌月(ないとうまさあき)開基です。

内藤昌月武田氏の家臣で、箕輪城城代でした。

元は箕輪城の城下創建されましたが、
その後箕輪城の城主になった井伊直政が居城を高崎城移転した際、
大信寺高崎に移転しました。

寛永十年(1633年)不行跡のかどで改易・逼塞を命じられ、
切腹を命じられ徳川忠長葬られています。
四十三回忌にあたる延宝三年(1675年)墓石が建てられました。

徳川忠長:江戸幕府三代将軍・徳川家光の弟

徳川忠長

駿河大納言と呼ばれる徳川忠長は、
慶長十一年(1606年)江戸幕府二代将軍徳川秀忠の三男として生まれ、
は秀忠の正室江(ごう)で、三代将軍徳川家光です。
母に溺愛され、兄・家光とは不仲から確執を深めていきました。
寛永三年(1626年)母の死去とともに乱行が目立つようになり、
領地内にある静岡浅間神社では殺生が禁止されている中の猿狩りや、
家臣への手打ちなどで家光が激怒し、甲府へ蟄居を命じられました。
寛永九年(1632年)父・秀忠の死去後、幕命により改易となり、
高崎へ逼塞(ひっそく)となりました。
寛永十年(1633年)高崎大信寺切腹しました。享年二十八でした。

鎌倉薬王寺には正室である松孝院により供養塔が建立されています。

徳川忠長墓所

境内奥の墓地には徳川忠長墓所があります。

罪人の為、墓石を建てることが許されず
その後墓石が建てられた後も、玉垣で隔離され、鎖が巻かれていたそうです。

墓所には立派な廟の中にあったそうですが、戦災で焼失してしまいました。

墓所の周囲は塀で囲まれています。
高崎駅側にも『駿河大納言徳川忠長公御廟所』という看板がありました。

守随(しゅずい)彦三郎の墓

徳川忠長の墓所の隣には、江戸の秤座(はかりざ)守随家三男彦三郎の墓があります。
江戸幕府承応二年(1653年)に、
秤量(ひょうりょう:はかりで重さを測る事)統一させるため、
守随家東三十三か国秤の製造販売の特権を与えました。

守随家初代茂済は、武田氏より秤の製造販売の特権を与えられていました。
高崎は彦三郎が名代役となって高崎秤座が開座されました。
(分家によって開かれた地方の秤座高崎名古屋二か所だけだそうです)

寺標と参道

高崎駅側と反対の西側に参道があります。

寺標の裏には『駿河大納言忠長卿御廟』と書かれています。

参道を歩くと本堂が見えてきました。

本堂

庫裡

ご朱印は庫裡で頂きました。

大信寺のご朱印

御本尊:ご朱印

寺院情報

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