【史跡訪問】東京都台東区:上野公園内とその周辺の史跡

東叡山寛永寺・上野公園内や周辺には数多くの史跡があります

東叡山寛永寺:由緒

現在の上野公園にある東叡山寛永寺は、
寛永二年(1625年)慈眼大師天海大僧正により創建されました。

天海大僧正江戸城鬼門(東北)にあたる上野の大地寛永寺建立しました。
寺号創建時の年号を使用することが許され、寛永寺となりました。

現在上野公園中央部分である噴水広場にあたる竹の台には、
元禄十一年(1698年)江戸幕府五代将軍徳川綱吉によって、
間口45メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという、
壮大根本中堂建立されました。

さらに、清水観音堂不忍池弁天堂、五重塔、開山堂大仏殿などの伽藍が競い建ち、
子院各大名の寄進により、三十六坊を数えました。

やがて徳川将軍家菩提寺も兼ねて、歴代将軍の霊廟造営され、
格式・規模においては我が国最大級の寺院して威容を誇りました。

しかし幕末官軍彰義隊との上野戦争により戦場となり、
全山の伽藍の大部分灰燼(かいじん)に帰してしまいました。

明治政府によって境内地が没収されるなど壊滅的な打撃を受けましたが、
明治十二年(1879年)復興が認められ、根本中堂再建されました。

上野恩賜公園(うえのおんしこうえん):由緒

明治三年(1870年)明治政府により、上野の山医学校を建設する計画が持ち上がり、
視察した蘭医ボードワン博士が、公園として残すよう政府に働きかけました。

明治六年(1873年)日本初の公園指定されました。

『上野の西郷さん』:西郷隆盛像

上野駅不忍口を出て、上野公園に入ると、有名な西郷隆盛像があります。
明治二十二年(1889年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって、
西郷隆盛「逆賊」の汚名が解かれたのをきっかけに、
吉井友実薩摩藩出身者によって西郷隆盛像建立計画が始まりました。

明治三十一年除幕式が行われました。
西郷像高村光雲(皇居前広場の楠木正成頭部作者)ので、
傍らの犬「ツン」後藤貞行(皇居前広場の楠木正成馬像作者)です。

彰義隊(しょうぎたい)の墓

徳川慶喜側近家来で、彰義隊士の生き残り小川興郷(おきさと)ら隊士は、
彰義隊の火葬場所に、明治七年(1874年)明治政府の許可を得て、
彰義隊戦士の墓建立しました。

円通寺住職仏磨和尚寛永寺御用商人であった三河屋幸三郎は、
許しを得て彰義隊士二百六十六名遺骸を、上野公園で火葬(現在の西郷隆盛像裏)し、
遺骨の一部円通寺に埋葬しました。彰義隊士のお墓南千住円通寺にもあります。

国指定重要文化財:旧因州池田屋敷表門

東京国立博物館入口の横に、『旧因州池田屋敷表門』があります。
鳥取藩池田家江戸屋敷表門として、丸の内大名小路(現・丸の内三丁目)に建てられ、
その後明治二十五年芝高輪台町常宮御殿表門として移築されました。
常宮御殿はのちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれました。
表門昭和二十九年現在地移築されました。

門の前にはゲートがあり、自由に入る事はできません。
東京国立博物館敷地内にあり、土曜日・日曜日・祝日開門されます。

平日や時間外門は閉まっています。

国指定重要文化財:旧東京音楽学校奏楽堂(そうがくどう)

明治二十三年(1890年)東京音楽学校(現・東京芸術大学)本館として建設されました。
我が国初本格的な音楽ホールで、音楽教育記念碑的な存在です。

滝廉太郎を始めとする幾多の音楽家を世に送り出してきましたが、老朽化が進み、
昭和六十二年広く一般に活用されるよう、移築復元されました。

現在は演奏会などにも利用されています。

国際子ども図書館(旧帝国図書館)

明治五年湯島聖堂内開館した書籍館(文部省博物局所管)以来の伝統を受け継ぎ、
明治三十年帝国図書館となりました。この建物は明治三十九年竣工しました。
建物の左側の部分昭和四年増築され、現在の規模になりました。

平成十二年国立国会図書館国際子ども図書館として開館し、
現在に至ります。

小泉八雲記念碑が建っています。昭和十年建立されました。

東京芸術大学大学美術館・上野陳列館

昭和四年(1929年)東京芸術大学主要な展示室として、
通年に渡り様々な展示が催されてきました。

陳列館の前には、皇居二重橋の旧飾燈がありました。

小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)銅像

上野公園内のスターバックスの向かい側に建つ銅像は、
小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)銅像です。

小松宮彰仁親王は、伏見宮邦家親王第八王子です。
慶応三年(1867年)仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあき)親王と名乗り、
明治維新では議定・軍事総裁として、戊辰戦争では奥羽征討総督として指揮を執りました。
西南戦争後に設立された負傷者救護団体博愛社(後の日本赤十字社)総裁に就任しました。
明治四十五年銅像が建立されました。

上野公園内:水で絵を描く人

上野公園内のスターバックス前あたりで、水を入れたバケツを持ち、
デッキブラシのようなもの地面に器用に絵を描くおじさんがいました。

見事なパンダの絵に、思わず見入ってしまいました。

正岡子規記念球場

上野公園内東京文化会館前正岡子規記念球場があります。
正岡子規明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球を愛好し、
明治十九年から二十三年頃にかけて、上野公園内野球を楽しんでいたそうです。

正岡子規随筆や小説に描く事で、野球の普及に貢献し、
「打者」「走者」「直球」など現在も使われている訳語を生み出しました。
平成十八年上野恩賜公園開園式典130周年記念して、子規の句碑を建立し、
野球場『正岡子規記念球場』愛称が付きました。

国立西洋美術館・前庭の彫刻:オーギュスト・ロダン『考える人』

オーギュスト・ロダン『考える人』です。

国立西洋美術館・前庭の彫刻:オーギュスト・ロダン『地獄の門』

オーギュスト・ロダン『地獄の門』です。

京成電鉄・旧博物館動物園駅跡

昭和八年(1933年)京成本線開通に合わせて開業しました。
国会議事堂のような外観が特徴的ですが、国会議事堂より先に建設されました。

ホームは短く四両編成しか停車できませんでした。平成九年(1997年)休止となり、
平成十六年(2004年)廃止されました。

旧吉田屋酒店

かつて谷中六丁目の一角にあった商家建築です。江戸時代以来の老舗でした。
旧店舗の建物が台東区に寄贈され、
昭和六十二年現在地(上野桜木2-10-6)移築復元しました。

現在は「下町風俗資料館付設展示場」となっています。

カヤバ珈琲

旧吉田屋酒店の前には『カヤバ珈琲』というレトロ建築のお店がありました。
大正五年建築だそうです。ミルクホールやかき氷店などを経て、
カヤバ珈琲昭和十三年に開店平成十八年一旦閉店しましたが、
地元の常連客芸大生からの惜しむ声を受け、その後復活しました。

上田邸(うえだてい)(旧忍旅館)

台東区池之端3-3-19の場所にある上田邸は、
護国院から清水坂を下り、不忍池弁天堂に向かう道すがらにあります。
以前は「忍旅館」として営業しており、
『花園町(現・池之端)の白さぎ城』親しまれていました。

市田邸

市田邸(上野桜木1-6-2)日本橋布団屋を営んでいた市田善兵衛氏によって、
明治四十年建てられました。

明治に入り、寛永寺の子院敷地民間分譲され、屋敷地へと遷り変わっていきました。
太平洋戦争後芸大音校生の下宿として活躍したのち、
現在NPO法人所有者より借り受け維持管理を行っています。

訪問時には演劇が開催されていました。

ご覧頂きましてありがとうございます。