Contents
- 1 東叡山寛永寺・上野公園内や周辺には数多くの史跡があります
- 1.0.1 東叡山寛永寺:由緒
- 1.0.2 上野恩賜公園(うえのおんしこうえん):由緒
- 1.0.3 『上野の西郷さん』:西郷隆盛像
- 1.0.4 彰義隊(しょうぎたい)の墓
- 1.0.5 国指定重要文化財:旧因州池田屋敷表門
- 1.0.6 国指定重要文化財:旧東京音楽学校奏楽堂(そうがくどう)
- 1.0.7 国際子ども図書館(旧帝国図書館)
- 1.0.8 東京芸術大学大学美術館・上野陳列館
- 1.0.9 小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)銅像
- 1.0.10 上野公園内:水で絵を描く人
- 1.0.11 正岡子規記念球場
- 1.0.12 国立西洋美術館・前庭の彫刻:オーギュスト・ロダン『考える人』
- 1.0.13 国立西洋美術館・前庭の彫刻:オーギュスト・ロダン『地獄の門』
- 1.0.14 京成電鉄・旧博物館動物園駅跡
- 1.0.15 旧吉田屋酒店
- 1.0.16 カヤバ珈琲
- 1.0.17 上田邸(うえだてい)(旧忍旅館)
- 1.0.18 市田邸
東叡山寛永寺・上野公園内や周辺には数多くの史跡があります
東叡山寛永寺:由緒
現在の上野公園にある東叡山寛永寺は、
寛永二年(1625年)に慈眼大師天海大僧正により創建されました。
天海大僧正は江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の大地に寛永寺を建立しました。
寺号も創建時の年号を使用することが許され、寛永寺となりました。
現在の上野公園の中央部分である噴水広場にあたる竹の台には、
元禄十一年(1698年)に江戸幕府五代将軍の徳川綱吉によって、
間口45メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという、
壮大な根本中堂が建立されました。
さらに、清水観音堂、不忍池弁天堂、五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い建ち、
子院も各大名の寄進により、三十六坊を数えました。
やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて、歴代将軍の霊廟も造営され、
格式・規模においては我が国最大級の寺院して威容を誇りました。
しかし幕末の官軍と彰義隊との上野戦争により戦場となり、
全山の伽藍の大部分が灰燼(かいじん)に帰してしまいました。
明治政府によって境内地が没収されるなど壊滅的な打撃を受けましたが、
明治十二年(1879年)に復興が認められ、根本中堂が再建されました。
上野恩賜公園(うえのおんしこうえん):由緒
明治三年(1870年)に明治政府により、上野の山に医学校を建設する計画が持ち上がり、
視察した蘭医のボードワン博士が、公園として残すように政府に働きかけました。
明治六年(1873年)に日本初の公園に指定されました。
『上野の西郷さん』:西郷隆盛像
上野駅不忍口を出て、上野公園に入ると、有名な西郷隆盛像があります。
明治二十二年(1889年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって、
西郷隆盛の「逆賊」の汚名が解かれたのをきっかけに、
吉井友実ら薩摩藩出身者によって西郷隆盛像建立の計画が始まりました。
明治三十一年に除幕式が行われました。
西郷像は高村光雲(皇居前広場の楠木正成の頭部の作者)の作で、
傍らの犬の「ツン」は後藤貞行(皇居前広場の楠木正成の馬像の作者)の作です。
彰義隊(しょうぎたい)の墓
徳川慶喜の側近家来で、彰義隊士の生き残りの小川興郷(おきさと)ら隊士は、
彰義隊の火葬場所の跡に、明治七年(1874年)に明治政府の許可を得て、
彰義隊戦士の墓を建立しました。
円通寺住職の仏磨和尚と寛永寺御用商人であった三河屋幸三郎は、
許しを得て彰義隊士二百六十六名の遺骸を、上野公園で火葬(現在の西郷隆盛像裏)し、
遺骨の一部を円通寺に埋葬しました。彰義隊士のお墓は南千住の円通寺にもあります。
国指定重要文化財:旧因州池田屋敷表門
東京国立博物館入口の横に、『旧因州池田屋敷表門』があります。
鳥取藩池田家江戸屋敷の表門として、丸の内大名小路(現・丸の内三丁目)に建てられ、
その後明治二十五年に芝高輪台町の常宮御殿の表門として移築されました。
常宮御殿はのちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれました。
表門は昭和二十九年に現在地へ移築されました。
門の前にはゲートがあり、自由に入る事はできません。
東京国立博物館の敷地内にあり、土曜日・日曜日・祝日に開門されます。
平日や時間外は門は閉まっています。
国指定重要文化財:旧東京音楽学校奏楽堂(そうがくどう)
明治二十三年(1890年)に東京音楽学校(現・東京芸術大学)本館として建設されました。
我が国初の本格的な音楽ホールで、音楽教育の記念碑的な存在です。
滝廉太郎を始めとする幾多の音楽家を世に送り出してきましたが、老朽化が進み、
昭和六十二年に広く一般に活用されるよう、移築復元されました。
現在は演奏会などにも利用されています。
国際子ども図書館(旧帝国図書館)
明治五年に湯島聖堂内に開館した書籍館(文部省博物局所管)以来の伝統を受け継ぎ、
明治三十年に帝国図書館となりました。この建物は明治三十九年に竣工しました。
建物の左側の部分が昭和四年に増築され、現在の規模になりました。
平成十二年に国立国会図書館国際子ども図書館として開館し、
現在に至ります。
小泉八雲記念碑が建っています。昭和十年に建立されました。
東京芸術大学大学美術館・上野陳列館
昭和四年(1929年)に東京芸術大学の主要な展示室として、
通年に渡り様々な展示が催されてきました。
陳列館の前には、皇居二重橋の旧飾燈がありました。
小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)銅像
上野公園内のスターバックスの向かい側に建つ銅像は、
小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)の銅像です。
小松宮彰仁親王は、伏見宮邦家親王の第八王子です。
慶応三年(1867年)に仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあき)親王と名乗り、
明治維新では議定・軍事総裁として、戊辰戦争では奥羽征討総督として指揮を執りました。
西南戦争後に設立された負傷者救護団体の博愛社(後の日本赤十字社)の総裁に就任しました。
明治四十五年に銅像が建立されました。
上野公園内:水で絵を描く人
上野公園内のスターバックス前あたりで、水を入れたバケツを持ち、
デッキブラシのようなもので地面に器用に絵を描くおじさんがいました。
見事なパンダの絵に、思わず見入ってしまいました。
正岡子規記念球場
上野公園内の東京文化会館前に正岡子規記念球場があります。
正岡子規は明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球を愛好し、
明治十九年から二十三年頃にかけて、上野公園内で野球を楽しんでいたそうです。
正岡子規は随筆や小説に描く事で、野球の普及に貢献し、
「打者」「走者」「直球」など現在も使われている訳語を生み出しました。
平成十八年に上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、子規の句碑を建立し、
野球場に『正岡子規記念球場』の愛称が付きました。
国立西洋美術館・前庭の彫刻:オーギュスト・ロダン『考える人』
オーギュスト・ロダンの『考える人』です。
国立西洋美術館・前庭の彫刻:オーギュスト・ロダン『地獄の門』
オーギュスト・ロダンの『地獄の門』です。
京成電鉄・旧博物館動物園駅跡
昭和八年(1933年)の京成本線開通に合わせて開業しました。
国会議事堂のような外観が特徴的ですが、国会議事堂より先に建設されました。
ホームは短く、四両編成しか停車できませんでした。平成九年(1997年)に休止となり、
平成十六年(2004年)に廃止されました。
旧吉田屋酒店
かつて谷中六丁目の一角にあった商家建築です。江戸時代以来の老舗でした。
旧店舗の建物が台東区に寄贈され、
昭和六十二年に現在地(上野桜木2-10-6)に移築復元しました。
現在は「下町風俗資料館付設展示場」となっています。
カヤバ珈琲
旧吉田屋酒店の前には『カヤバ珈琲』というレトロ建築のお店がありました。
大正五年の建築だそうです。ミルクホールやかき氷店などを経て、
カヤバ珈琲は昭和十三年に開店、平成十八年に一旦閉店しましたが、
地元の常連客や芸大生からの惜しむ声を受け、その後復活しました。
上田邸(うえだてい)(旧忍旅館)
台東区池之端3-3-19の場所にある上田邸は、
護国院から清水坂を下り、不忍池弁天堂に向かう道すがらにあります。
以前は「忍旅館」として営業しており、
『花園町(現・池之端)の白さぎ城』と親しまれていました。
市田邸
市田邸(上野桜木1-6-2)は日本橋で布団屋を営んでいた市田善兵衛氏によって、
明治四十年に建てられました。
明治に入り、寛永寺の子院の敷地が民間に分譲され、屋敷地へと遷り変わっていきました。
太平洋戦争後、芸大音校生の下宿として活躍したのち、
現在NPO法人が所有者より借り受け、維持管理を行っています。
訪問時には演劇が開催されていました。
ご覧頂きましてありがとうございます。