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小塚原(こづかはら)地名の由来:百観音:円通寺(えんつうじ)
都電荒川線三ノ輪橋駅から、
日光街道沿いに北千住方面へ百メートル程進むと、
彰義隊士の墓で有名な円通寺があります。
都電荒川線:三ノ輪橋駅
近くには都電荒川線の始発であり終着でもある三ノ輪橋駅があります。
三ノ輪橋駅にはレトロな看板も展示されていました。
三ノ輪橋
三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が、
現在の日光街道と交差するところに架けられた橋です。
音無川は現在は暗渠(あんきょ)となり、
橋の名前は都電荒川線の停留所名として残されました。
本堂
本堂の上にある大きな観音像が特徴的です。
由緒
延暦十年(791年)に坂上田村麻呂が開創しました。
また、源義家が奥州を鎮定したとき、打ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、
このあたりを小塚原(こづかはら)とよぶようになったといいます。
江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに『下谷の三寺』と呼ばれました。
秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから、
『百観音』の通称で親しまれましたが、
観音堂は安政二年(1855年)の大地震で倒壊しました。
史跡:旧寛永寺の黒門
彰義隊士と大村益次郎率いる官軍とによる、
慶応四年(1868年)の上野戦争の銃弾の跡が生々しく残っています。
彰義隊はわずか一日で壊滅しました。
黒門はかつて上野の寛永寺の表門として重要な門でした。
明治四十年(1907年)に上野から移築されたものです。
銃弾の跡が生々しく残っています。
彰義隊士の墓
上野戦争後に二百名を超える彰義隊士の遺骸が残り、
旧幕府側が官軍に引き取りを申し出ましたが、許可が出ませんでした。
境内には三十九基の彰義隊や旧幕臣の墓碑などの石造物群があります。
円通寺住職の武田仏磨と寛永寺御用商人であった三河屋幸三郎は、
許しを得て彰義隊士二百六十六名の遺骸を、上野公園で火葬(現在の西郷隆盛像裏)し、
遺骨の一部を円通寺に埋葬しました。
彰義隊士・松平太郎の墓
幕臣:大鳥圭介追弔の碑
源義家ゆかりの地:石造七重の塔・首塚
首塚は源義家が奥羽征伐で賊首四十八を埋めて築いたものです。
元々観音原と呼ばれていたこの場所は、
築かれた塚を由来として『小塚原(こづかはら)』と呼ばれるようになりました。
令和六年参拝時:石造七重の塔・首塚
石像七重塔は令和五年に荒川区の有形文化財・歴史資料に指定されています。
榎本武揚書による寺号額
よしのぶ地蔵
昭和三十八年3月31日台東区下谷で、
当時四歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、殺害されました。
円通寺はの吉展ちゃんの遺体発見現場だったのです。
その後円通寺には、供養のため地蔵が建立されました。
供養の地蔵は小塚原回向院にもあります。
円通寺のご朱印
平成二十九年拝受:ご朱印
百観音の由来
ご朱印の百観音とは、かつて境内に、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、
秩父三十四ヶ所霊場の合計百体の観音像を安置した観音堂があったことに由来します。
しかし安政二年の大地震で倒壊し、
現在三十三体の観音像が本堂に安置されています。
寺院情報
- 住所:東京都荒川区南千住1-59-11
- アクセス:都電荒川線三ノ輪橋駅徒歩4分
東京メトロ日比谷線三ノ輪駅徒歩5分 - HP:http://www6.plala.or.jp/entsuji/
上野公園内の彰義隊士の墓
彰義隊士の墓は上野公園内の西郷隆盛像の裏にもあります。
上野公園内の彰義隊士の墓
徳川慶喜の側近家来で、彰義隊士の生き残りの小川興郷(おきさと)ら隊士は、
彰義隊の火葬場所の跡に、明治七年(1874年)に明治政府の許可を得て、
彰義隊戦士の墓を建立しました。
以後百二十年余りに渡り小川興郷の一族により墓所は守られ、
その後管理は東京都に移管されました。
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