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累塚(かさねづか):祐天寺(ゆうてんじ)
東急東横線の祐天寺駅の駅名の由来ともなっている祐天寺は、
江戸の高僧の祐天上人の名をとって、
弟子の祐海上人が享保三年(1718年)に建立しました。
祐天上人
祐天上人は江戸時代中期に活躍した高僧です。
五十歳まで増上寺で修行し、その後寺を離れ、
牛島(墨田区)に草庵を結びました。
念仏三昧の日々を送りながら、
『南無阿弥陀仏』の名号を書写して、
多くの人々に授けました。
授かった多くの人々が様々な利益(りやく)を得るようになり、
その噂は江戸幕府五代将軍の徳川綱吉の生母・桂昌院にも達しました。
そして将軍家や皇室、諸大名の帰依を受けるようになりました。
正徳元年(1711年)には六代将軍の徳川家宣から、
増上寺三十六世住職を命じられました。
一度引退した後、このような出世を遂げるのは前代未聞の事でした。
正徳四年(1714年)に増上寺を退隠後も、
ひたすら念仏と名号書写の生活を送り、
享保三年(1718年)に八十二歳で亡くなりました。
本堂
境内は将軍家により寄進された諸堂宇によって伽藍が整えられ、
多くの参詣人で賑わう念仏道場として発展してきました。
境内にある遊び場「祐遊広場」には今も遊ぶ子どもたちの声で賑わっていました。
明治二十七年(1894年)の火災により、本堂などを焼失しましたが、
明治三十一年(1898年)に境内にあった将軍家代々の御霊殿を曳き移し、
そこに内陣・外陣を増築して復興しました。
阿弥陀堂
享保八年(1723年)に五代将軍の徳川綱吉の養女・竹姫により寄進されました。
阿弥陀如来坐像の胎内には竹姫が書写した名号一万遍が納められているそうです。
地蔵堂
寛政九年(1797年)に松本の光明院より遷座されました。
祐天上人の本地身(ほんじしん)といわれ、延命と火消しの御利益があるとして、
信仰を集めました。
鐘楼堂と梵鐘
六代将軍の徳川家宣の十七回忌追福の為、
享保十四年(1729年)に正室・天英院から寄進されました。
仁王門
享保二十年(1735年)に竹姫より寄進されました。
扁額に揮毫(きごう)された山号『明顕山』は、
祐天上人の法名『明蓮社顕誉上人』からとられたものだそうです。
累(かさね)塚
祐天上人が累(かさね)という女性の怨霊を成仏得脱させた伝説です。
累は『江戸三大幽霊』のひとりともされます。
歌舞伎では四世鶴屋南北の『法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)』や、
落語では三遊亭圓朝の『真影累ケ淵(しんけいかさねがふち)』など、
多くの題材として上演されています。
累塚は大正十五年に六代目尾上梅幸、十五代目市村羽左衛門、
五代目清元延寿大夫によって建立されました。
仏舎利殿
平成二十九年(2017年)に建立されました。
飾られている大きな絵馬は、祐天上人と累のお話にまつわるものだそうです。
祐天寺のご朱印
平成二十五年拝受:ご朱印
令和二年拝受:ご朱印
祐天上人書写:ご朱印
祐天上人が書写した『南無阿弥陀仏』が印となっています。
累塚:ご朱印
寺院情報
- 住所:東京都目黒区中目黒5-24-53
- アクセス:東急東横線祐天寺駅徒歩7分
- HP:http://www.yutenji.or.jp/
祐天寺商店街:蒸気機関車の車輪
商店街の一角に蒸気機関車の車輪が展示されていました。
昭和天皇のお召し列車を牽引したこともあるそうです。
本体は解体されてしまったそうですが、主動輪は国鉄から払い下げられたそうです。
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