Contents
源頼朝発願:永福寺(ようふくじ)跡
由緒
文治五年(1189年)に奥州藤原氏との奥州合戦を契機に、
源義経や藤原泰衡らを供養する為、
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が発願しました。
建久三年(1192年)に本堂が完成しましたが、
応永十二年(1405年)の火災の後廃絶しました。
源頼朝は奥州平泉で見た毛越寺や中尊寺に感激し、
建立を思い立ったそうです。
史跡永福寺跡の発掘事業
昭和五十八年(1983年)から発掘調査が開始されました。
平成十九年(2007年)以降、復元整備工事が着手され、
平成二十九年(2017年)六月に基礎と苑池の復元が完了し、公開されました。
発掘作業:平成二十六年訪問時
平成二十六年の訪問時には発掘作業が行われていました。
復元された史跡永福寺跡
当時の地面の上に厚さ60センチの盛土をして遺跡を保護しながら、
同じ位置に諸堂を再現しています。
当時の永福寺は『二階堂』『阿弥陀堂』『薬師堂』の三つの堂が中心となっています。
二階堂(にかいどう)
三堂の中心の仏堂で、大きさは正面約19.4メートル、奥行約17.6メートル、
周囲に幅2.4メートルの裳階(もこし:ひさし)を付けた本瓦葺と考えられます。
本尊は釈迦如来と考えられます。
阿弥陀堂
阿弥陀堂は二階堂の南側に建つ脇堂です。
正面が16.7メートル、奥行が約12.7メートルの本瓦葺です。
阿弥陀堂の本尊は阿弥陀如来と考えられます。
薬師堂
薬師堂は二階堂の北側に建つ脇堂です。
正面が約16.7メートル、奥行が約12.7メートルの本瓦葺です。
薬師堂の本尊は薬師如来と考えられます。
北複廊(きたふくろう)
二階堂と薬師堂をつなぐ幅約6.6メートルの長さ約12.2メートルの建物でした。
南複廊(みなみふくろう)
二階堂と阿弥陀堂をつなぐ幅約6.6メートルの長さ約12.7メートルの建物です。
北翼廊(きたよくろう)・北中門(きたちゅうもん)
北翼廊は薬師堂の北側より北に約13.7メートルで、
東に折れて東西に約37.3メートルの規模の廊下です。
北中門は北翼廊の北面中央に開かれた間口約4.5メートル、
奥行3.7メートルの格式の高い四脚門(しきゃくもん)です。
遣水(やりみず)(庭園渓流)
北翼廊の北側に、谷間の流水を引き込んでつくられていました。
長さ約35メートル、幅は約3メートル、狭いところで約1.8メートル、
深さ約20センチです。
南翼廊(みなみよくろう)・南中門(みなみちゅうもん)
南翼廊は阿弥陀堂の南側より南に約13.4メートル、
ここで東に折れて東西に約27.7メートルの規模です。
南中門は南翼廊の南側中央に開かれた間口約4.8メートル、
奥行3.6メートルの格式高い四脚門です。
中島
中島は池の中にあった島です。様々な岩を組み合わせて島を築いています。
島の大きさは南北に長さ約10メートル、東西に幅5メートル、
高さは約1.2メートルあります。
堂前の池と橋
南北に約200メートル、東西に約70メートルの南北に長いひょうたん型をしています。
創建期には正面の池に幅4.8メートル、
推定長さ35メートルの反橋(そりばし)が架けられていました。
鎌倉幕府二代将軍:源頼家ゆかりの地
釣殿(つりどの)
池に突き出す南翼廊の先端に『釣殿』が設けられていました。
釣殿とは邸宅内の遊宴の為の建物ですが、寺院建築には大変珍しいそうです。
『吾妻鏡(あづまかがみ)』には、
鎌倉幕府二代将軍の源頼家が酒宴を釣殿で行ったと書かれています。
史跡永福寺跡情報
- 住所:神奈川県鎌倉市二階堂209
- アクセス:JR鎌倉駅下車『鎌倉宮』行きバス終点下車徒歩5分(瑞泉寺方面)
- HP:http://www.yofukuji.net/
ご覧頂きましてありがとうございます。