Contents
- 1 江の島七福神弁財天:鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)
- 1.0.1 江の島七福神
- 1.0.2 江の島七福神:御朱印帳
- 1.0.3 江の島七福神弁財天:旗上弁財天社
- 1.0.4 尼将軍:北条政子ゆかりの地
- 1.0.5 政子石
- 1.0.6 源氏池
- 1.0.7 平家池
- 1.0.8 由緒
- 1.0.9 国指定重要文化財:一の鳥居
- 1.0.10 由比ガ浜歩道橋から見た一の鳥居
- 1.0.11 由比ガ浜歩道橋から見た鶴岡八幡宮
- 1.0.12 浜の大鳥居跡の碑(由比ガ浜歩道橋近く)
- 1.0.13 二の鳥居
- 1.0.14 段葛(だんかずら)
- 1.0.15 鎌倉町青年會:段葛(だんかずら)の碑
- 1.0.16 太鼓橋
- 1.0.17 手水舎
- 1.0.18 奉納酒
- 1.0.19 大銀杏(おおいちょう)
- 1.0.20 令和四年十一月:大銀杏
- 1.0.21 裸馬:歌碑
- 1.0.22 本宮(上宮)・楼門(国指定重要文化財)
- 1.0.23 令和五年正月:楼門
- 1.0.24 舞殿(下拝殿)
- 1.0.25 本宮から見た舞殿・三の鳥居と若宮大路
- 1.0.26 若宮(下宮)(国指定重要文化財)
- 1.0.27 丸山稲荷社(国指定重要文化財)
- 1.0.28 祖霊社
- 1.0.29 西参道鳥居
- 1.0.30 東参道鳥居
- 1.0.31 鎌倉幕府御家人:畠山重忠ゆかりの地
- 1.0.32 鎌倉町青年團:畠山重忠邸址碑
- 1.0.33 明治天皇鎌倉御野立所と明治天皇閲兵の処
- 1.0.34 柳原神池
- 1.0.35 鎌倉町青年團:柳原の碑
- 1.0.36 鎌倉国宝館
- 1.0.37 白旗神社
- 2 鶴岡八幡宮のご朱印
- 3 神社情報
江の島七福神弁財天:鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)
江の島七福神
江の島七福神巡りが始まったのは昭和五十七年のお正月からです。
江の島七福神:御朱印帳
江の島七福神弁財天:旗上弁財天社
北条政子が源平池を作らせた際、源氏池に弁財天社を祀ったのがはじまりです。
弁財天社は、明治維新の神仏分離の際、他の堂塔とともに除かれましたが、
昭和三十一年に再興され、
昭和五十五年九月の創建八百年を記念し、現在の社殿が復元されました。
尼将軍:北条政子ゆかりの地
周囲の反対を押し切り、伊豆に流罪となっていた源頼朝の妻となり、
後の鎌倉幕府将軍の源頼家、源実朝を産みました。
頼朝の死後は『尼将軍』として、鎌倉幕府を支えました。
その後源実朝の暗殺や後鳥羽上皇による承久の乱などの危機を乗り切り、
嘉禄元年(1225年)に亡くなりました。享年六十九でした。
北条政子が作らせた源平池があります。
政子石
弁財天社の裏に『政子石』があります。
北条政子が懐妊した時に、源頼朝が安産祈願をした石といわれています。
子宝や夫婦円満、良縁成就のご利益があるといわれています。
源氏池
寿永元年(1182年)に北条政子は大庭景義(おおばかげよし)に命じて、
境内の東西に池を作らせ、東の池(源氏池)には三島を配し、
『三は産なり』と祝いました。
平家池
寿永元年(1182年)に北条政子は大庭景義(おおばかげよし)に命じて、
境内の東西に池を作らせ、西の池(平家池)には四島を配し、
『四は死なり』と平家滅亡を祈願しました。
由緒
康平六年(1063年)に源頼義が前九年の役で戦勝を祈願した、
京都の石清水八幡宮(あるいは河内の壷井八幡宮)を由比郷鶴岡(現:材木座一丁目)に、
『鶴岡若宮(現・由比若宮)』として勧請したのがはじまりです。
治承四年(1180年)平家打倒を掲げ鎌倉に入った源頼朝は、
宮を現在地に遷し、社殿を中心に整備を始めました。
戦国時代には里見氏により焼き討ちに遭うも、
北条氏綱が再建致しました。
その後江戸幕府の庇護により諸堂が整備されましたが、
明治維新の神仏分離令に際して、仏堂は破壊されました。
国指定重要文化財:一の鳥居
鎌倉警察署の近くに一の鳥居があります。治承四年(1180年)に源頼朝が建立し、
現在の石造の鳥居は寛文八年(1668年)に再建されました。
江戸幕府二代将軍の徳川秀忠夫人の夢に八幡大神が現れ、
『備前国の犬島の石で一の鳥居を造れ』というお告げがあり、
後の三代将軍の徳川家光が誕生した為、家光の子の四代将軍の徳川家綱が完成させました。
由比ガ浜歩道橋から見た一の鳥居
道路が鳥居で分かれています。
一の鳥居の側には畠山重保邸跡があります。
由比ガ浜歩道橋から見た鶴岡八幡宮
一の鳥居の近くの由比ガ浜歩道橋から見た鶴岡八幡宮です。
二の鳥居、三の鳥居と本宮が見えます。
浜の大鳥居跡の碑(由比ガ浜歩道橋近く)
由比ガ浜歩道橋近くに『浜の大鳥居跡』の碑があります。
『浜鳥居』と呼ばれて、治承四年(1180年)の建立以来数次の再建を繰り返しました。
平成二年の発掘調査で発見された鳥居の柱痕の年代は、
天文二十二年(1553年)に北条氏康によって造立された大鳥居の可能性が高いようです。
二の鳥居
鎌倉駅から歩くと二の鳥居があります。
段葛(だんかずら)
二の鳥居から三の鳥居に至る中央の一段高い参道を、
『段葛(だんかずら)』と呼びます。
養和二年(1182年)三月に源頼朝は妻政子の安産を祈って整備しました。
平成二十八年(2016年)に大正時代より百年ぶりに整備を行いました。
鎌倉町青年會:段葛(だんかずら)の碑
太鼓橋
源氏池と平家池を繋ぐ水路にかかる石造の橋を太鼓橋といいます。
関東大震災で倒壊した後、昭和二年(1927年)に再建されました。
手水舎
綺麗な菊が浮かべられていました。
奉納酒
大銀杏(おおいちょう)
鎌倉幕府三代将軍の源実朝を暗殺した、
公暁(くぎょう:源頼家の子)が隠れていたという伝説のある大銀杏は、
平成二十二年(2010年)3月の強風で根元から倒れました。
(樹齢八百年とも千年ともいわれていました)
現在ひこばえが育っています。
令和四年十一月:大銀杏
裸馬:歌碑
大銀杏の下で非業の死を遂げた鎌倉幕府三代将軍の源実朝を悼み、
俳人でもあった菅礼之助(俳号・裸馬)が詠んだ歌の歌碑がありました。
本宮(上宮)・楼門(国指定重要文化財)
文政十一年(1828年)に江戸幕府第十一代将軍の徳川家斉が再建しました。
六十一段の石段を上ると楼門と拝殿が繋がった本宮があります。
寛永六年(1629年)曼珠院門跡良恕法親王の揮毫による、
扁額の『八幡宮』の『八』の字は二羽の鳩が象られています。
令和五年正月:楼門
舞殿(下拝殿)
静御前が源義経を慕い、舞った若宮廻廊跡に建つ舞殿です。
神社での祭りや結婚式が執り行われる場所となります。
本宮から見た舞殿・三の鳥居と若宮大路
若宮(下宮)(国指定重要文化財)
若宮は祖先の偉業を継ぐ社として、本宮同様重んぜられています。
現在の社殿は江戸時代初期の寛永元年(1624年)の建築です。
丸山稲荷社(国指定重要文化財)
本殿の鎮座以前から祀られていた地主神です。
室町期の神社建築の貴重な遺例として高く評価されているそうです。
祖霊社
氏子崇敬者の祖霊と護国の英霊を祀る為、
昭和二十四年に建立されました。
西参道鳥居
流鏑馬神事が行われる参道です。
東参道鳥居
鎌倉幕府御家人:畠山重忠ゆかりの地
畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族です。
畠山重忠は源頼朝の挙兵の際、最初は平家方として頼朝討伐に参加しましたが、
その後頼朝に帰伏しました。
鎌倉幕府の有力御家人として、『鎌倉武士の鑑』とも称されました。
しかし北条時政の謀略により、北条義時率いる大軍に滅ぼされました(畠山重忠の乱)
東参道鳥居のそばには鎌倉幕府有力御家人であった畠山重忠邸址があります。
鎌倉町青年團:畠山重忠邸址碑
明治天皇鎌倉御野立所と明治天皇閲兵の処
本殿裏の大臣山は、明治六年(1873年)に日本で初めて行われた陸軍演習を、
明治天皇が閲兵した場所です。
明治天皇は、閲兵後本宮を御親拝されました。
柳原神池
柳の名所にちなんで名前がつけられました。
蛍放生会、鈴虫放生会が執り行われています。
鎌倉町青年團:柳原の碑
鎌倉国宝館
関東大震災の被害を契機に、
昭和三年に鎌倉の文化財の保護・見学を目的として開館した博物館です。
中では仏像の生の迫力が体験できました。
白旗神社
御祭神は『源頼朝』と『源実朝』です。
小田原征伐に後に参拝した豊臣秀吉は、
白旗神社に祀られていた源頼朝像に、
『御身と我は天下友達なり』と語りかけた逸話があります。
鶴岡八幡宮のご朱印
平成十三年拝受:ご朱印
平成二十六年拝受:ご朱印
令和四年拝受:ご朱印
令和五年正月拝受:ご朱印
令和五年正月拝受:白旗神社:ご朱印
江の島七福神・弁財天:ご朱印
令和五年正月拝受:江の島七福神・弁財天:ご朱印
授与品:ご朱印用クリアファイル
神社情報
- 住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
- アクセス:JR鎌倉駅徒歩10分
- HP:https://www.hachimangu.or.jp/
ご覧頂きましてありがとうございます。
本覚寺、長谷寺、宝戒寺、浄智寺、御霊神社、江島神社、妙隆寺、鶴岡八幡宮
八つの寺社で一年を通して頂くことができます。