神奈川県鎌倉市:鎌倉三十三観音霊場第二十五番札所:浄光明寺のご朱印

古都鎌倉十三佛霊場第九番札所・鎌倉二十四地蔵尊霊場第十六番、第十七番札所:浄光明寺(じょうこうみょうじ)

鎌倉三十三観音霊場

鎌倉三十三観音霊場

大正から昭和初期に設定されました。
江戸時代に成立した『鎌倉郡三十三箇所』を元にしたといわれています。

専用の御朱印帳はありませんので、第一番札所杉本寺で無地のご朱印帳を購入し、
鎌倉三十三観音霊場専用としました。

古都鎌倉十三佛霊場

十三佛信仰とは

十三仏を参拝すれば、亡き人の追善になり、
また追善を行った功徳により、
自らの死後十三王の審判から救済されるという十三仏信仰が盛んになり、
日本全国に霊場があり、多くの人が巡拝しています。

古都鎌倉十三佛霊場札所

一番札所:明王院(不動明王)
二番札所:浄妙寺(釈迦如来)
三番札所:本覚寺(文殊菩薩)
四番札所:寿福寺(普賢菩薩)
五番札所:円応寺(地蔵菩薩)
六番札所:浄智寺(弥勒菩薩)
七番札所:海蔵寺(薬師如来)
八番札所:報国寺(観世音菩薩)
九番札所:浄光明寺(勢至菩薩)
十番札所:来迎寺(西御門)(阿弥陀如来)
十一番札所:覚園寺(亜閦如来)
十二番札所:極楽寺(大日如来)
十三番札所:虚空蔵堂(虚空蔵菩薩)

古都鎌倉十三佛霊場:御朱印帳 

鎌倉二十四地蔵尊霊場

鎌倉二十四地蔵尊霊場

明治の廃仏毀釈などで失われる地蔵尊を憂い、
明治三十四年(1901年)より各所を捜索し、
大正六年(1917年)成立したといわれています。

地蔵菩薩お釈迦様が入滅後、弥勒菩薩如来として姿を現すまでの無仏の間
六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)すべての世界で、
衆生を救済するとされます。

鎌倉二十四地蔵霊場には専用の御朱印帳ありませんでしたので、
寺院用御朱印帳に頂きました。

由緒

建長三年(1251年)鎌倉幕府五代執権北条時頼と、
六代執権北条長時開基となって創建されました。

開山真聖(しんしょう)国師です。

後醍醐天皇から寺領を寄進されており、
成良親王(後醍醐天皇皇子)祈願所となっています。

鎌倉時代:赤橋流北条家の菩提寺

六代執権北条長時から始まる赤橋流北条氏菩提寺として位置付けられています。

鎌倉時代二度の火災に見舞われた際も、住僧の努力や、
赤橋久時と、鎌倉幕府最後十六代執権赤橋守時親子の援助により、
その都度再興されました。

鎌倉幕府の終焉を見届けた寺といわれています。

山門

元々近隣にある英勝寺惣門でしたが、一時民間の手に渡った後、
大正十五年(1926年)寄進されました。
英勝寺創建された寛永年間のものだそうです。

山門の先には客殿があります。

足利尊氏・直義兄弟ゆかりの地

室町幕府初代将軍足利尊氏は、
後醍醐天皇との戦いを決断する前浄光明寺蟄居していました。

足利尊氏十六代執権赤橋守時妹婿にあたる為、篤く庇護していました。

その後足利尊氏四男初代鎌倉公方足利基氏や、
基氏の息子第二代鎌倉公方である足利氏満鎌倉公方保護も受けています。

浄光明寺の地蔵菩薩立像足利直義守り本尊であり、
戦いの中で直義のために矢を拾い集めた伝承がある、
『矢拾(やひろい)地蔵』です。

冷泉為相(れいぜいためすけ)ゆかりの地

藤原定家の孫歌道の名門冷泉家の始祖でもある、
歌人冷泉為相(れいぜいためすけ:鎌倉時代の歌人)お墓もあります。

冷泉為相墓

境内の奥には冷泉為相墓網引地蔵のある山への階段があります。

冷泉為相墓由緒

網引地蔵(あみひきじぞう):鎌倉二十四地蔵尊霊場第十六番札所

石造地蔵菩薩坐像網引地蔵になります。
漁師の網にかかり海から引きあげられたとの伝承があります。

冷泉為相墓と網引地蔵へ向かう階段です。

階段を登ると広い場所がありました。

広場からは海を眺めることができました。庫裡でご朱印を頂いた際に伺うと、
見えている島は伊豆大島だそうです。

鎌倉青年團:藤谷黄門遺蹟(ふじがやつこうもんいせき)

寺標の側に『藤谷黄門遺蹟(ふじがやつこうもんいせき)』として、
冷泉為相の屋敷がかつてあったことが記載されています。

境内

鎌倉公方足利義兼は、
応永六年(1399年)父の氏満祖父の基氏遺骨を分けて浄光明寺に安置し、
鎌倉公方の菩提寺となりました。

客殿

御本尊の拝観日

御本尊木・土・日曜・祝日(雨天中止)午前10時~12時13時~16時に、
拝観料200円で拝観できます。

仏殿と観音堂

正面仏殿左奥には観音堂があります。

仏殿には元々御本尊阿弥陀三尊像が祀られていましたが、
隣の収蔵庫に遷座されたことに伴い、京都の泉涌寺仏殿に倣い、
三世仏造像されました。

収蔵庫

国指定重要文化財阿弥陀三尊像が安置されていました。

中世の鎌倉のみで流行した『土紋(どもん)』と呼ばれる装飾が施されていました。
雨の湿気から土紋を保護する為、雨天の拝観を中止しているそうです。

不動堂

楊貴妃観音

大伴神主家(おおともかんぬしけ)墓所

鶴岡八幡宮の神主を務めた大伴家(おおともけ)の墓所があります。

墓石には神主の笏(しゃく)が彫られていました。

現在確認されるだけでも第十五代から二十三代までの九基の神主墓と、
その家族墓塔があります(記録上は第十代から)

庫裡

庫裡でご朱印を頂きました。

鎌倉市天然記念物:マキ

推定樹齢約七百五十年になります。

浄光明寺のご朱印

鎌倉三十三観音霊場第二十五番札所:ご朱印

古都鎌倉十三佛霊場第九番札所:ご朱印

鎌倉二十四地蔵尊霊場第十六番札所:網引地蔵ご朱印

鎌倉二十四地蔵尊霊場第十七番札所:矢拾地蔵尊ご朱印

寺院情報

  • 住所:神奈川県鎌倉市扇ガ谷2-12-1
  • TEL:0467-22-1359
  • アクセス:JR鎌倉駅徒歩18分

浄光明寺周辺

鎌倉町青年團:扇谷(おうぎがやつ)上杉管領屋敷跡碑 

浄光明寺の近くの住宅街の中に『扇谷上杉管領屋敷跡』の碑があります。

扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)

扇谷上杉家

扇谷上杉家は関東に割拠した上杉家の諸家のひとつで、
上杉顕定を祖とします。
江戸城築城で有名な太田道灌扇谷上杉家家宰(かさい)であります。

上杉氏鎌倉幕府第六代将軍宗尊親王が鎌倉に下向する際、
上杉重房が親王に従って鎌倉へ下向したのがはじまりです。

足利尊氏室町幕府を開き、その子である足利基氏が鎌倉に入り鎌倉公方になると、
その補佐役の関東管領上杉憲顕が就任しました。

伝・阿仏尼(あぶつに)の墓

浄光明寺英勝寺の近くに、
冷泉為相母親『十六夜(いざよい)日記』作者である、
阿仏尼(あぶつに)のお墓もあります。

阿仏尼

女流歌人であり、藤原為家側室として、冷泉為相・為守を産みました。
夫の死後、荘園の相続を巡り、正妻の子である二条為氏と争いがおこり、
訴訟の為鎌倉へ下りました。この時の紀行鎌倉での滞在を記したのが、
『十六夜日記』です。

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