Contents
- 1 富士塚・音羽富士(おとわふじ):護国寺(ごこくじ)
- 2 護国寺のご朱印
- 3 寺院情報
- 3.1 護国寺の墓所
- 3.1.1 三条実美(さんじょうさねとみ)
- 3.1.2 大隈重信(おおくましげのぶ)
- 3.1.3 安田善次郎(やすだぜんじろう)
- 3.1.4 山縣有朋(やまがたありとも)
- 3.1.5 ジョサイア・コンドル
- 3.1.6 大山倍達(おおやまますたつ)
- 3.1.7 梶原一騎(かじわらいっき)
- 3.1.8 山田顕義(やまだあきよし)
- 3.1.9 伊達宗敦(だてむねあつ):仙台藩知藩事・男爵
- 3.1.10 松平治郷(まつだいらはるさと)・不味(ふまい):松江藩十代藩主
- 3.1.11 大倉喜八郎(おおくらきはちろう)
- 3.1.12 池田成彬(いけだしげあき)
- 3.1.13 田中光顕(たなかみつあき)
- 3.1.14 島津忠承(しまづただつぐ):公爵
- 3.1.15 南部利恭(なんぶとしゆき)・利祥(としなが)
- 3.1.16 梅謙次郎(うめけんじろう)
- 3.1.17 平田東助(ひらたとうすけ)
- 3.1.18 武藤信義(むとうのぶよし):陸軍元帥
- 3.1.19 清岡公張(きよおかともはる)
- 3.1.20 小松原道太郎(こまつばらみちたろう):陸軍中将
- 3.1.21 鳩山邦夫(はとやまくにお)
- 3.1.22 野間清治(のませいじ)
- 3.1.23 音羽陸軍埋葬地
- 3.1 護国寺の墓所
富士塚・音羽富士(おとわふじ):護国寺(ごこくじ)
江戸三十三観音霊場
江戸三十三観音霊場は特に専用の御朱印帳はありませんでしたので、
寺院用の御朱印帳に頂きました。
富士塚(ふじづか)
富士信仰に基づいて、富士山に模して造られた山や塚のことです。
江戸時代に始まったもので、特に関東地方の神社に多く見られます。
既に存在する丘や古墳を転用して富士山に見立てたものや、
富士山の溶岩を積み上げたものがあります。
浅間神社の境内にあり、富士塚の山頂にも浅間神社奥宮が設けられています。
『江戸界隈七富士』のひとつ:音羽富士(おとわふじ)
音羽富士参道
護国寺には『音羽富士』と呼ばれる富士塚があります。
音羽富士は通年登る事が出来ます。
音羽富士は江戸時代の文化十四年(1817年)に造られ、
明治十八年(1885年)に現在地に移されました。標高は約6メートルあります。
音羽富士山頂
山頂には浅間神社の祠があります。
山頂からの眺めです。
由緒
天和元年(1681年)に江戸幕府五代将軍の徳川綱吉が母親・桂昌院の発願によって、
上野国の碓氷八幡宮別当の大聖護国寺の亮賢僧正(りょうけんそうじょう)を招き、開山として、
堂宇が建立されました。
筑波山大御堂は別院になります。
護国寺は幕府の祈願寺で、檀家を持たなかったため、明治時代には苦境に陥り、
境内地約五万坪のうち、東側の約二万五千坪は宮家の墓所として豊島岡墓所が造られ、
皇族墓地とされました。
護国寺の東側に豊島岡墓地入口がありました。
仁王門
建立は元禄十年(1697年)造営の観音堂よりやや時代が後と考えられます。
左側から阿形と吽形の金剛力士像があります。
唐銅蓮形手洗水盤一対二基
『唐銅蓮形手洗水盤一対二基』は桂昌院による寄進です。
元禄十年(1697年)頃に鋳造されました。
平成二十年に改修復元することができたそうです。
不老門(ふろうもん)
昭和十三年(1938年)に建立されました。額面の『不老』の文字は、
徳川宗家第十六代当主の徳川家達の筆によるものです。
観音堂(本堂)
元禄十年(1697年)に建立されました。戦災の被害を免れ、江戸の面影を今に伝えています。
国指定重要文化財:月光殿(げっこうでん)
近江の三井寺の塔頭・日光院の客殿が、
昭和三年に現在の場所へ移築されました。桃山時代の遺構です。
大師堂
元禄十四年(1701年)に再営された旧薬師堂は、大正十五年(1926年)以降に大修理し、
大師堂として現在地に移築されました。
多宝塔
昭和十三年に建立されました。石山寺の多宝塔の模写だそうです。
鐘楼
伝統を重んじた格式の高い、
袴腰付重層入母屋造(はかまごしつきじゅうそういりもや)の形式で、
江戸時代中期の造営です。梵鐘は天和二年(1682年)に寄進されました。
惣門(そうもん)
惣門は元禄年間に建立されたもので、
護国寺の方丈への軸線上にあります。
形式は江戸時代の武家屋敷門の五万石以上の大名クラスの格式高いもので、
幕府の厚い庇護を受けていたことがわかります。
葵の門
大仏
筑波山の別当の護持院(現・筑波山神社)から、明治の廃仏毀釈の際に移設されました。
座高は2.5メートルあります。
身代地蔵尊
六地蔵
音羽講中(おとわこうちゅう)庚申塔(こうしんとう)
総高210センチと規模の大きい庚申塔です。天明五年(1785年)の銘があります。
塔部は台座上の三猿で支えられています。
護国寺のご朱印
平成二十一年拝受:江戸三十三観音霊場第十三番札所・ご朱印
令和二年拝受:江戸三十三観音霊場第十三番札所・ご朱印
令和五年拝受:弘法大師空海上人御生誕千二百五十年記念・切り絵ご朱印
弘法大師空海上人御生誕千二百五十年の記念御朱印を頂きました。
専用ケースに入っていました。
令和六年拝受:絵観音・ご朱印
寺院情報
- 住所:東京都文京区大塚5-40-1
- アクセス:東京メトロ有楽町線護国寺駅下車すぐ
- HP:https://www.gokokuji.or.jp/
護国寺の墓所
護国寺には明治以降の多くの偉人・有名人の墓所があります。
三条実美(さんじょうさねとみ)
三条実美は幕末・明治期の公卿・政治家で、
文久三年(1863年)八月十八日の政変により京都から追われ、長州に下りました(七卿落ち)
明治四年(1871年)から廃止される十八年(1885年)まで太政大臣に任ぜられ、
明治二十四年(1891年)に五十五歳で病死しました。
大隈重信(おおくましげのぶ)
幕末・明治の佐賀の政治家で、第八代・十七代内閣総理大臣です。
早稲田大学の創設者でもあります。大正十一年(1922年)に八十三歳で亡くなりました。
安田善次郎(やすだぜんじろう)
明治・大正の実業家で、安田財閥の祖です。
安田銀行(富士銀行・現在のみずほフィナンシャルグループ)や、
現在の損保ジャパン、明治安田生命、東京建物等を次々と設立しました。
大正十年(1921年)に暴漢に刺殺され、八十二歳で亡くなりました。
東京大学の安田講堂や日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校などを寄贈しました。
山縣有朋(やまがたありとも)
幕末・明治の長州出身の政治家で、
元帥・陸軍大将であり、第三代・九代の内閣総理大臣でもあります。
大正十一年(1922年)に八十五歳で亡くなりました。
別の場所に『公爵山縣家』の墓所もありました。
ジョサイア・コンドル
明治の建築家で、鹿鳴館・ニコライ聖堂・旧古河邸など多くの建築物をつくり、
辰野金吾・片山東熊・曽彌達蔵など多くの俊才を育てました。
大正九年(1920年)に六十七歳で亡くなりました。
大山倍達(おおやまますたつ)
空手家で極真会館の創始者です。
平成六年(1994年)に七十一歳で亡くなりました。
梶原一騎原作の漫画『空手バカ一代』のモデルでもあります。
本堂裏右側の場所に墓所がありました。
梶原一騎(かじわらいっき)
漫画原作者として、『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』『空手バカ一代』など、
数多くの作品を生み出しました。昭和六十二年(1987年)に五十歳で亡くなりました。
本名は高森朝樹で高森家の墓名となっています。
音羽富士と本坊の間の道を進むと墓所がありました。
山田顕義(やまだあきよし)
長州出身の政治家・軍人で、松下村塾の最後の門下生でした。
西郷隆盛からも「用兵の天才」と評価され、『小ナポレオン』とも称されました。
近代日本の法典編纂に尽力し、日本大学の学祖とされます。
明治二十五年(1892年)に四十七歳で亡くなりました。
伊達宗敦(だてむねあつ):仙台藩知藩事・男爵
伊予宇和島藩藩主・伊達宗城の次男で、
明治四年(1871年)の廃藩置県まで仙台藩知藩事でした。
爵位は男爵で、明治四十四年(1911年)に五十八歳で亡くなりました。
松平治郷(まつだいらはるさと)・不味(ふまい):松江藩十代藩主
松江藩十代藩主で、江戸時代の代表的な茶人の一人でもあります。
不味(ふまい)流として現在まで残っています。
文政元年(1818年)に六十八歳で亡くなりました。
大倉喜八郎(おおくらきはちろう)
大倉財閥の設立者で、東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者です。
昭和三年(1928年)に九十二歳で亡くなりました。
池田成彬(いけだしげあき)
三井合名会社の筆頭常務理事で、政治家として日本銀行総裁、大蔵大臣などを歴任しました。
昭和二十五年(1950年)に八十三歳で亡くなりました。
田中光顕(たなかみつあき)
土佐出身の政治家で、土佐勤王党や陸援隊に参加しました。
明治になり警視総監・学習院院長など要職を歴任し、
昭和十四年(1939年)に九十五歳で亡くなりました。
島津忠承(しまづただつぐ):公爵
玉里島津家の第三代当主で、昭和二十一年(1946年)から日本赤十字社の社長を務めました。
平成二年(1990年)に八十七歳で亡くなりました。
南部利恭(なんぶとしゆき)・利祥(としなが)
南部利恭(としゆき)は陸奥国盛岡藩の最後の藩主で、
明治十七年(1884年)に伯爵となりました。明治三十六年(1903年)に亡くなりました。
利祥(としなが)は長男で、日露戦争で戦死しました。二十三歳でした。
梅謙次郎(うめけんじろう)
明治の法学者で、民法・商法を立案・起草し、
第三次伊藤博文内閣で法制局長官を務めました。
明治四十三年(1910年)に五十歳で亡くなりました。
平田東助(ひらたとうすけ)
米沢藩出身の政治家で、農商務大臣・内務大臣などを歴任しました。
山縣有朋の側近として知られます。大正十四年(1925年)に七十七歳で亡くなりました。
武藤信義(むとうのぶよし):陸軍元帥
陸軍大将で、関東軍司令官や教育総監などを歴任しました。
昭和八年(1933年)に六十四歳で亡くなりました。
清岡公張(きよおかともはる)
土佐藩出身の官僚で、元老院議官や貴族院議員などを歴任しました。
明治二十年(1887年)に子爵となり、明治三十四年(1901年)に六十歳で亡くなりました。
小松原道太郎(こまつばらみちたろう):陸軍中将
ソ連大使館武官や関東軍司令部付などを歴任しました。
第二十三師団長の時にノモンハン事件が起こりました。
昭和十五年(1940年)に五十四歳で亡くなりました。
鳩山邦夫(はとやまくにお)
政治家で文部大臣・法務大臣・総務大臣などを歴任しました。
祖父は内閣総理大臣の鳩山一郎です。平成二十八年(2016年)に六十七歳で亡くなりました。
野間清治(のませいじ)
講談社の創業者です。昭和十三年(1938年)に五十九歳で亡くなりました。
音羽陸軍埋葬地
明治以降の近衛その他の在京部隊に在籍した戦没者の英霊が埋葬されています。
ご覧頂きましてありがとうございます。
江戸時代の寛永十八年(1641年)から元禄十一年(1703年)の間に、
開創されたといわれています。明治の廃仏毀釈を経て、廃寺などで札所が入れ替わり、
昭和五十一年(1976年)に改訂され、『昭和新撰江戸三十三観音』と呼ばれています。