Contents
- 1 これまでに参拝しました鎌倉殿や源氏一族・御家人にゆかりの寺社をまとめてみました。
- 1.1 源頼朝(みなもとのよりとも)
- 1.2 源義経(みなもとのよしつね)
- 1.3 源範頼(みなもとののりより)
- 1.4 阿野全成(あのぜんじょう)
- 1.5 源頼家(みなもとのよりいえ)
- 1.6 源実朝(みなもとのさねとも)
- 1.7 源義仲(みなもとのよしなか)
- 1.8 源義高(みなもとのよしたか)
- 1.9 北条時政(ほうじょうときまさ)
- 1.10 北条義時(ほうじょうよしとき)
- 1.11 北条政子(ほうじょうまさこ)
- 1.12 北条泰時(ほうじょうやすとき)
- 1.13 北条時房(ほうじょうときふさ)
- 1.14 北条宗時(ほうじょうむねとき)
- 1.15 大姫(おおひめ)
- 1.16 比企能員(ひきよしかず)
- 1.17 畠山重忠(はたけやましげただ)
- 1.18 畠山重保(はたけやましげやす)
- 1.19 三浦義明・義澄(みうらよしあき・よしずみ)
- 1.20 梶原景時(かじわらかげとき)
- 1.21 千葉常胤(ちばつねたね)
- 1.22 和田義盛(わだよしもり)
- 1.23 大江広元(おおえのひろもと)
- 1.24 上総広常(かずさひろつね)
- 1.25 安達盛長(あだちもりなが)
- 1.26 三善康信(みよしやすのぶ)
- 1.27 仁田忠常(にったただつね)
- 1.28 土肥実平(どいさねひら)
- 1.29 加藤景廉(かとうかげかど)
これまでに参拝しました鎌倉殿や源氏一族・御家人にゆかりの寺社をまとめてみました。
源頼朝(みなもとのよりとも)
鎌倉・伊豆のみならず関東一円や北陸地方にもある源頼朝ゆかりの地をまとめてあります。
源頼朝ゆかりの地
源義経(みなもとのよしつね)
清和源氏嫡流の河内源氏の源義朝の九男として生まれました。
兄に鎌倉幕府初代将軍の源頼朝がいます。
平治の乱で父・義朝が敗れたことにより鞍馬寺に預けられました。
奥州平泉藤原氏当主の藤原秀衡の庇護を受け、
兄・頼朝が平家打倒に挙兵すると馳せ参じ、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。
頼朝との対立により奥州平泉に逃れましたが、
藤原秀衡の死後、跡を継いだ藤原泰衡によって攻められ、
自害しました。享年三十一でした。
満福寺:神奈川県鎌倉市
兄・源頼朝の怒りを解くための手紙『腰越状』を書いたお寺です。
鶴岡八幡宮:神奈川県鎌倉市
愛妾の静御前(しずかごぜん)が源義経を慕って舞った舞殿があります。
源範頼(みなもとののりより)
源義朝の六男で鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の異母弟になります。
蒲冠者(かばのかじゃ)・蒲殿(かばどの)と呼ばれています。
頼朝の代官として、源義仲や平家討伐に赴き、源義経とともに打ち破りました。
建久四年(1193年)に頼朝に謀反の疑いをかけられ、修善寺に流されました。
修善寺日枝神社:静岡県伊豆の国市
日枝神社の境内にあった信功院に幽閉されていたのを、
梶原景時に討伐され、亡くなったといわれますが、
修善寺から逃れたという伝説もあります。
静岡県伊豆市:源範頼の墓
修善寺日枝神社の境内にあった信功院に幽閉されていたのを、
梶原景時に討伐され、亡くなったといわれますが、
修善寺から逃れたという伝説もあります。
修禅寺から西の小山地区の山腹に源範頼の墓と伝わる祠がありましたが、
明治十二年に骨壺が掘り出され、範頼の墓を裏付けるものとなりました。
埼玉県比企郡吉見町:息障院(そくしょういん)
源範頼の館跡といわれています。
埼玉県比企郡吉見町:吉見観音安楽寺(あんらくじ)
源範頼は領地の半分を安楽寺に寄進し、大講堂や三重塔などを建立しました。
阿野全成(あのぜんじょう)
源義朝の七男で源頼朝の異母弟にあたります。
頼朝の兄弟の中で初めて平家打倒の挙兵に参加しました。
鎌倉幕府の御家人として駿河国阿野荘(静岡県沼津市)を領有し、
頼朝の妻である北条政子の妹の阿波局と結婚しました。
建仁三年(1203年)に鎌倉幕府二代将軍の源頼家に謀反の疑いをかけられ、
常陸国に配流され、頼家の命を受けた八田知家に誅殺されました。享年五十一でした。
静岡県伊豆の国市:真珠院
阿野全成の開創とも伝えられています。
静岡県沼津市:大泉寺(だいせんじ)
大泉寺は阿野全成の屋敷の持仏堂でした。全成と息子の時元の墓所があります。
源頼家(みなもとのよりいえ)
源頼朝の嫡男で、母は北条政子です。
十八歳で家督を相続し、その後鎌倉幕府二代将軍となりました。
建仁三年(1203年)の七月頃から急病にかかり、八月末には危篤状態となりました。
その間に頼家の乳母父で長男・一幡の外祖父である比企能員が、北条時政に謀殺され、
比企一族も滅ぼされました。
病から回復した頼家は激怒し、北条時政討伐を命じますが、従う者はおらず、
修禅寺に幽閉され、元久元年(1204年)に北条氏の手兵により殺害されました。
享年二十三でした。
源頼家の墓:指月殿:静岡県伊豆市
北条政子が息子・頼家の冥福を祈り、菩提所として指月殿を建立しました。
源実朝(みなもとのさねとも)
源頼朝の次男として生まれ、二代将軍の兄・頼家が追放されると、
十二歳で三代将軍に就きました。
『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』を編纂するなど、
歌人としての才能も発揮しましたが、
建保七年(1219年)に鶴岡八幡宮にて、
頼家の次男の公暁(くぎょう・こうぎょう)に殺害されました。
享年二十八でした。
浄妙寺:神奈川県鎌倉市
建暦二年(1212年)に源実朝は足利義氏(足利宗家三代当主)に命じて造営を加え、
母の北条政子の白檀の立像と新造の釈迦像を安置しました。
寿福寺:神奈川県鎌倉市
源実朝の墓があります。
江島神社:神奈川県藤沢市
江島神社内の辺津宮は、
建永元年(1206年)に鎌倉幕府三代将軍の源実朝により創建されました。
鶴岡八幡宮:神奈川県鎌倉市
源頼家の次男の公暁(くぎょう・こうぎょう)に暗殺された場所の大銀杏があります。
源実朝公御首塚:神奈川県秦野市
建保七年(1219年)に公暁に討ち取られた実朝の首は、
武常晴によってこの地に持ち込まれ、
退耕行勇を導師として、手厚く葬られたと伝えられています。
秦野金剛寺:神奈川県秦野市
建長二年(1250年)に波多野忠綱が鎌倉幕府三代将軍の源実朝の菩提を弔う為に、
再興されました。
源義仲(みなもとのよしなか)
河内源氏の一族の源義賢(みなもとのよしかた)の次男であり、
源頼朝とは従兄弟にあたります。信濃源氏の武将で、木曾義仲の名で知られています。
源義賢は源頼朝の父である源義朝との対立により、
義朝の長男である源義平に討たれました。
以仁王の令旨(りょうじ)によって挙兵し、俱利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破り、
源頼朝より先に入京しました。後に源頼朝の軍勢に敗れ、近江国粟津で討死しました。
埴生護国八幡神社(はにゅうごこくはちまんぐう):富山県小矢部市
源義仲が源平合戦の勝利を祈願した社として知られています。
平安時代の末、寿永二年(1183年)五月、源義仲は埴生に陣をとり、
俱利伽羅山に二倍の軍勢を布く平維盛の大軍との決戦を控え、
勝利を祈願しました。
源義高(みなもとのよしたか)
清水冠者(しみずかじゃ)と号します。信濃源氏の源義仲の嫡男となります。
寿永二年(1183年)に父の源義仲が平家打倒の兵を挙げました。
その後治承四年(1180年)に兵を挙げていた源頼朝との間で対立関係となり、
和議の人質として、義高は頼朝の娘・大姫の婿という名目で鎌倉に向かいました。
寿永二年七月に義仲は平家を破り入京しますが、京を治めることができず、
後白河法皇とも対立しました。
源頼朝との間で戦となり、寿永三年(1184年)の宇治川の戦いで敗れ、
粟津の戦いで義仲は討たれました。
元暦元年(1184年)四月に頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、
密かに義高を逃がそうとしますが、夜になって事が露見し、頼朝は兵を派遣しました。
武蔵国で追手に捕らえられて、入間河原で藤内光澄(とうないみつずみ)に討たれました。
享年十二でした。
影隠地蔵と清水八幡:埼玉県入間市
影隠地蔵(かげかくしじぞう)は、
源義高が追手からの難を避ける為に、地蔵の背後に姿を隠したことから呼ばれています。
清水八幡は、大姫の母親である北条政子は、墓所に義高を祀る社を建立し、
政子自身も参拝したという言い伝えが残ります。
常楽寺(じょうらくじ):神奈川県鎌倉市
源義高の墓所といわれる木曽塚があります。
北条時政(ほうじょうときまさ)
伊豆国の豪族で、最初伊豆に流された源頼朝の監視役でしたが、
娘の北条政子が源頼朝の妻となると、頼朝とともに平家打倒の挙兵をし、
平家滅亡後は鎌倉幕府初代執権となりました。
その後三代将軍の源実朝を殺害し、
娘婿の平賀朝雅を新将軍に擁立しようとした企み(牧氏の変)が発覚し、
伊豆へ追放されました。
建保三年(1215年)に伊豆で亡くなりました。享年七十八でした。
江島神社:神奈川県鎌倉市
江島神社の中の龍宮(わだつみのみや)で北条時政が参籠して子孫繫栄を願った際、
龍が現れ、三つの鱗(うろこ)を落とし、それを北条氏の家紋にした伝説があります。
願成就院(がんじょうじゅいん):静岡県伊豆の国市
北条時政が娘の北条政子の夫である源頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝祈願の為、
建立されました
史跡北条氏邸跡(円成寺跡):静岡県伊豆の国市
鎌倉幕府滅亡後、十四代執権の北条高時の母である覚海円成が、
北条氏の一族の女性とともに韮山に移り住み、
一族の菩提を弔う為、円成寺(えんじょうじ)を建立しました。
平成四年(1992年)~五年(1993年)の発掘調査で、
鎌倉幕府有力御家人であった北条時政をはじめとした、
北条氏の本拠地であったことが確認されました。
北条義時(ほうじょうよしとき)
北条時政の次男で、姉の北条政子が源頼朝の妻となったことを契機に、
父や兄・宗時とともに平家打倒に挙兵しました。
頼朝をはじめ、源頼家、源実朝など歴代の幕府将軍を助け、
後に鎌倉幕府二代執権となりました。
政子とともに、源実朝の暗殺や、
後鳥羽上皇による承久の乱の危機を乗り越えましたが、
元仁元年(1224年)に亡くなりました。享年六十二でした。
覚園寺(かくおんじ):神奈川県鎌倉市
建保六年(1218年)に鎌倉幕府第二代執権の北条義時が建立した、
大倉薬師堂が起源とされています。
法華堂跡(北条義時墓所):神奈川県鎌倉市
源頼朝の法華堂の東の山上を義時の墳墓(ふんぼ:供養)の地として、
新法華堂が建立されました。
宝戒寺:神奈川県鎌倉市
北条義時以来の北条得宗家の屋敷がありました。
北條寺:静岡県伊豆の国市
北條寺には北条義時と妻の伊賀の方のお墓があります。
豆塚神社:静岡県伊豆の国市
北条義時の長男の安千代丸が大蛇に襲われて亡くなった時に、
元久元年(1204年)に願主として、
池場寺(現在の珍場神社)に若宮八幡宮と記した棟札を奉じています。
その後小池掘丸山の旧霊廟を曳いて、この地に移したといわれています。
北条義時館跡:静岡県伊豆の国市
北条義時(江間小四郎)が青年時代を過ごした屋敷跡と推定されています。
北条政子(ほうじょうまさこ)
周囲の反対を押し切り、伊豆に流罪となっていた源頼朝の妻となり、
後の鎌倉幕府将軍の源頼家、源実朝を産みました。
頼朝の死後は『尼将軍』として、鎌倉幕府を支えました。
その後源実朝の暗殺や後鳥羽上皇による承久の乱などの危機を乗り切り、
嘉禄元年(1225年)に亡くなりました。享年六十九でした。
鶴岡八幡宮:神奈川県鎌倉市
源頼朝が安産祈願をした『政子石』があります。
安養院:神奈川県鎌倉市
北条政子が源頼朝の冥福を祈る為に建立した長楽寺が前身と伝えられます。
『安養院』は北条政子の法号となります。
北条政子の墓もあります。
寿福寺:神奈川県鎌倉市
北条政子が源頼朝の死後、栄西を招いて開山しました。
北条政子の墓もあります。
三嶋大社:静岡県三島市
境内には源頼朝との腰掛石があります。
また奉納した『梅蒔絵手箱 及び 内容品 一具』は国宝に指定されています。
伊豆山神社(いずさんじんじゃ):静岡県熱海市
源頼朝と北条政子の出逢いの場でした。また頼朝が挙兵後、石橋山の戦いに敗れた際は、
頼朝が帰依していた伊豆山権現の僧・覚淵(かくえん)を頼り、
政子と娘の大姫らは伊豆山権現(伊豆山神社)に身を潜めていました。
北條寺:静岡県伊豆の国市
北条政子が寄進した『牡丹鳥獣文繍帳』などが所蔵されています。
北条政子産湯の井:静岡県伊豆の国市
北条政子が保元二年(1157年)に生まれた時の産湯の水をとった井戸といわれています。
北条泰時(ほうじょうやすとき)
鎌倉幕府二代執権の北条義時の長男として生まれました。
建仁二年(1202年)に三浦義村の娘を正室に迎えました。
父と共に、鎌倉幕府有力御家人である比企能員や和田義盛を討伐し、
承久三年(1221年)の承久の乱では幕府軍の総大将として上洛し、
後鳥羽上皇の軍を破りました。
父・義時の死後、伯母である北条政子の後見で三代執権となり、
貞永元年(1232年)に全五十一ヶ条からなる『御成敗式目』を制定し、
武士社会に必要な法典を整備しました。
仁治三年(1242年)に六十歳で亡くなりました。
北条小町邸跡:神奈川県鎌倉市
鶴岡八幡宮のそばに『北条小町邸跡』と呼ばれる遺構が展示されており、
かつて北条泰時の屋敷があったといわれています。
常楽寺(じょうらくじ):神奈川県鎌倉市
北条泰時は妻の母の追善供養の為、開山しました。
後に泰時の墓所となりました。
北条時房(ほうじょうときふさ)
安元元年(1175年)に鎌倉幕府の初代執権の北条時政の子として生まれました。
北条義時、北条政子の異母弟にあたります。兄の義時を助け、
承元三年(1209年)には政所別当に任じられました。
承久三年(1221年)の承久の乱では北条泰時とともに東海道を進軍して上洛し、
戦後は泰時とともに京に留まり、初代六波羅探題(ろくはらたんだい)南方になります。
北条義時の死後、三代執権となった北条泰時を補佐する為に請われて、
初代連署(れんしょ)となりました。延応二年(1240年)死去。享年六十六でした。
北条時房屋敷跡:神奈川県鎌倉市
若宮大路の『北条小町邸跡』を段葛を挟んで反対側に、
鎌倉幕府有力御家人ので三代執権の北条泰時の時代に連署となった、
北条時房の屋敷跡があります。
北条宗時(ほうじょうむねとき)
北条時政の嫡男として生まれました。北条義時・阿波局の同母兄にあたり、
北条政子・北条時房は異母妹弟となります。
治承四年(1180年)に源頼朝の平家打倒の挙兵の際、父親の時政、弟の義時とともに、
山木兼隆邸(現・香山寺)を襲撃しました。
石橋山の戦いに敗れ、頼朝らと共に山中に逃げましたが、
その後時政と義時は甲斐国に向かいました。
宗時は山を降り、早河の辺りで伊東祐親の軍勢に包囲され、
平井郷の武士である小平井久重(こひらいひさしげ)に射られて討たれました。
北条宗時・狩野茂光墓所:静岡県田方郡函南町
北条宗時は鎌倉幕府初代執権の北条時政の嫡男であり、
二代執権の北条義時の兄にあたります。
平家打倒の戦いである石橋山の戦いで敗れ、討たれました。
大姫(おおひめ)
源頼朝の娘で、源義仲の嫡男・義高と婚約し、
仲睦まじく鎌倉で暮らしていました。義高11歳、大姫6歳の時でした。
その後頼朝による義仲追討の際に、人質であった義高は、
頼朝が放った刺客により討ち取られてしまいました。
その後大姫は憔悴し、病がちとなり、やがて亡くなりました。
享年二十でした。
海蔵寺(かいぞうじ):神奈川県鎌倉市
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の娘・大姫を供養する岩船地蔵堂があります
常楽寺(じょうらくじ):神奈川県鎌倉市
源義仲の嫡男の源義高の許嫁で、
源頼朝の娘の大姫の墓所といわれる姫宮塚があります。
比企能員(ひきよしかず)
源頼朝に仕えた御家人で、頼朝の乳母であった比企尼の養子にあたります。
妻は源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻になり、頼家の子一幡を産むなど、
源氏(鎌倉殿)とは深い関係をもっていました。
その後能員は北条氏との間で頼家の後継者争いから殺害されました。
一族は北条氏との戦いに敗れ、屋敷に火を放ち、自害しました(比企の変)
妙本寺:神奈川県鎌倉市
妙本寺は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれる場所にあり、
かつて比企能員一族の屋敷がありました。
正法寺(しょうぼうじ):埼玉県東松山市
比企氏は岩殿観音に深く帰依していました。
畠山重忠(はたけやましげただ)
畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族です。
畠山重忠は源頼朝の挙兵の際、最初は平家方として頼朝討伐に参加しましたが、
その後頼朝に帰伏しました。
鎌倉幕府の有力御家人として、『鎌倉武士の鑑』とも称されました。
しかし北条時政の謀略により、北条義時率いる大軍に滅ぼされました(畠山重忠の乱)
享年四十二でした。武勇の誉れ高く、
清廉潔白な人柄から『坂東武士の鑑(かがみ)』と呼ばれました。
菅谷館跡(すがややかたあと):埼玉県比企郡嵐山町
菅谷館は畠山重忠の居館でありました。
鬼鎮神社(きじんじんじゃ):埼玉県比企郡嵐山町
畠山重忠の居館である菅谷館の鬼門除けの守護神として祀られました。
鶴岡八幡宮:神奈川県鎌倉市
東参道鳥居のそばに畠山重忠の屋敷跡があります。
佐助稲荷神社(さすけいなりじんじゃ):神奈川県鎌倉市
源頼朝の命で、畠山重忠が社殿を建立しました。
畠山重忠終焉の地:神奈川県横浜市旭区
相鉄線鶴ヶ峰駅周辺で『畠山重忠の乱』の史跡があります。
浅間神社(忍野八海):山梨県南都留郡忍野村
建久四年(1193年)に鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が、
富士裾野の巻狩(まきがり)の際に、鳥居地峠から鬼坂までを社領と定め、
和田義盛、畠山重忠の寄進による、
神門と運慶作の金剛力士像が建立されたと伝えられています。
武蔵御嶽神社:東京都青梅市
畠山重忠の銅像と、畠山重忠が奉納した赤糸威大鎧(国宝)と、
黒漆太刀銘宝寿(国指定重要文化財)が宝物殿に安置されています。
井椋神社(いぐらじんじゃ)
井椋神社は、畠山重忠の父・重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、
祖父・重綱が勧請したものです。
畠山重忠公墓所・畠山重忠公産湯の井戸・畠山重忠公史跡公園:埼玉県深谷市
埼玉県深谷市にある畠山の地にある畠山重忠公史跡公園には、
『畠山重忠公産湯の井戸』と『畠山重忠公墓所』があります。
満福寺(まんぷくじ):埼玉県深谷市
畠山重忠が再興し、菩提寺としました。重忠廟があります。
畠山重保(はたけやましげやす)
生年は不詳です。父親は鎌倉幕府有力御家人の畠山重忠で、
母親は北条時政の娘となります。
元久二年(1205年)に北条時政の娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ)との確執により、
謀反の疑いをかけられ、由比ヶ浜に呼び出されたところを三浦義村に討たれました。
父親である畠山重忠も北条義時に討たれ、畠山氏は滅亡しました(畠山重忠の乱)
畠山重保墓所
鶴岡八幡宮の一の鳥居のそばに、鎌倉幕府有力御家人の畠山重忠の息子、
畠山重保の墓所があります。
三浦義明・義澄(みうらよしあき・よしずみ)
三浦一族は桓武平氏の平良文を祖としています。
三浦義明は源頼朝の挙兵に参加しましたが、
衣笠城合戦で畠山重忠と戦い破れ、戦死しました。
義明の子である義澄は、鎌倉幕府の宿老として、
平家打倒に武功を挙げました。
海南神社:神奈川県三浦市
三浦義明・義澄は参詣の際、神事により、源頼朝率いる源氏側につくことに決めました。
来迎寺(材木座):神奈川県鎌倉市
三浦義明と義明の四男の多々良重春のお墓があります。
腹切り松公園:神奈川県横須賀市
衣笠城合戦に敗れ、衣笠城と運命を共にした三浦大介義明ですが、
言い伝えによると、城から逃れ、このあたりの松の木の下で切腹したといわれています。
梶原景時(かじわらかげとき)
梶原氏は坂東平氏の流れを組む鎌倉氏の一族です。
源頼朝が平家打倒の兵を挙げた時、
最初は同族である大庭景親(おおばかげちか)とともに、
石橋山の戦いで頼朝の軍を打ち破りましたが、
山中に隠れる頼朝らを見逃したという故事があります。
その後頼朝に帰伏し、鎌倉幕府の有力御家人の一人となりましたが、
他の御家人から排除され、一族は滅亡しました(梶原景時の変)
御霊神社:神奈川県鎌倉市
梶原氏の祖である景久の従兄弟である鎌倉景政が祀られています。
建長寺:神奈川県鎌倉市
建長寺では毎年7月15日に三門で『三門施餓鬼会』と、
梶原景時の霊を弔う為『梶原施餓鬼会』が行われます。
蘭渓道隆が施餓鬼会を終えた後、一人の武者が現れました。
施餓鬼会を終えたと聞き残念そうに去ろうとした武者を呼び止め、
もう一度施餓鬼会を行ったところ、自らを梶原景時の霊と名乗り、
大変感謝をして姿を消したという故事があります。
梶原大刀洗水:神奈川県鎌倉市
鎌倉十二所側から朝夷奈切通に向けて歩く途中、
鎌倉幕府有力御家人の梶原景時が上総広常を鎌倉の御所にて斬った後、
刀を洗ったとされる『梶原大刀洗水』があります。
修善寺日枝神社:静岡県伊豆の国市
信功院に幽閉されていた源範頼を討伐しました。
梶原景時館跡:神奈川県高座郡寒川町
梶原景時は一宮を所領としており、一宮の地に館を構えました。
物見の跡の高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。
千葉常胤(ちばつねたね)
桓武平氏良文流千葉氏の一族です。千葉常重の息子で、上総広常とは又従兄弟です。
千葉家中興の祖といわれています。
源頼朝の平家打倒の挙兵に参加し、鎌倉幕府の有力御家人となりました。
建仁元年(1201年)に亡くなりました。享年八十四でした。
平治の乱で源氏が敗北した後、配流された、
源義家の八男・陸奥七郎源義隆の三男・源頼隆を庇護し、
大切に育てました。
千葉神社の近くに建つ千葉常胤像です。
蓮乗院:神奈川県鎌倉市
御本尊の阿弥陀如来像は、源頼朝の鎌倉入りを進言したという、
鎌倉幕府有力御家人の千葉常胤の守護仏といわれています。
千葉神社:千葉県千葉市
千葉家代々の守護神として信仰されています。
妙隆寺(みょうりゅうじ):神奈川県鎌倉市
千葉常胤(ちばつねたね)の子孫、千葉胤貞(ちばたねさだ)の別邸の、
『千葉屋敷』跡に建っています。
牛嶋神社(うしじまじんじゃ):東京都墨田区
平家打倒の兵を挙げた源頼朝が治承四年(1180年)に下総国から武蔵国に渡る際、
豪雨による洪水に遭いましたが、千葉常胤が祈願により、無事に渡ることができました。
和田義盛(わだよしもり)
久安三年(1147年)に三浦義明の子である杉本義宗の子として生まれました。
源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府の初代侍所別当になりました。
『比企能員の乱』や『畠山重忠の乱』では北条方につきましたが、
『和田義盛の乱(和田合戦)』を起こし、討死しました。
和田塚:神奈川県鎌倉市
和田一族敗死の屍を埋葬した塚として伝承されています。
朝夷奈切通(あさいなきりどおし):神奈川県鎌倉市
和田義盛の三男の朝比奈義秀(あさひなよしひで)が切り開いたという伝説があります。
道玄坂(どうげんざか):東京都渋谷区
江戸時代以来、和田義盛の子孫の大和田太郎道玄がこの坂に出没して、
山賊夜盗のように振る舞ったという伝説があります。
森戸大明神(もりとだいみょうじん):神奈川県三浦郡葉山町
衣笠城へ向かう途中の源頼朝は、千貫松を見て、『如何にも珍しき松』と褒めたところ、
出迎えた和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたと、
言い伝えられています。
大江広元(おおえのひろもと)
鎌倉幕府の初代政所別当である大江広元は、初めは朝廷に仕える下級貴族でしたが、
兄の中原親能(なかはらのちかよし)の縁で鎌倉に下りました。
朝廷との交渉やその他の分野などでも実務家として活躍し、
鎌倉幕府の中で重要な地位を占めていました。
嘉禄元年(1225年)に七十八歳で亡くなりました。
大江広元の四男が毛利氏の祖にあたる毛利季光(もうりすえみつ)で、
子孫には戦国大名の毛利元就や輝元がいます。
大江稲荷:神奈川県鎌倉市
法華堂跡:神奈川県鎌倉市
大江広元の四男が毛利氏の祖にあたる毛利季光(もうりすえみつ)である縁から、
長州藩第十代藩主である毛利斉熙(もうりなりひろ)が、
文政六年(1823年)に墓所を造営しました。
上総広常(かずさひろつね)
上総権介平常澄(たいらのつねずみ)の八男です。
房総平氏惣領家の頭首として、
治承四年(1180年)に平家打倒の兵を挙げた源頼朝の挙兵に参戦しました。
千葉常胤とは又従兄弟にあたります。
寿永二年(1183年)に謀反の企てがあると頼朝に疑われた広常は、
頼朝の命を受けた梶原景時に鎌倉の御所内で殺害されました。
(上総広常には謀反の意思は無かったといわれています)
上総介塔:神奈川県横浜市金沢区
上総介塔は朝夷奈切通の近く、金沢八景駅へ向かう大きな通り沿いにあり、
上総広常の墓といわれています。
上総介塔は上総広常の屋敷が近くにあったといわれ、
鎌倉に入る交通の要所に拠点を構えてたとことがわかります。
玉前神社(たまさきじんじゃ):千葉県長生郡一宮町
寿永二年(1183年)七月に鎧一領と石碑に記された書状を添えて、
源頼朝の心願と東国太平を祈願しました。
安達盛長(あだちもりなが)
源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍(たんごのないし)を妻に持ち、
頼朝が伊豆に流されていた時代から仕えていました。
頼朝と北条政子の仲を取り持ったともいわれています。
平家との石橋山の戦いに敗れた後、下総国の大豪族である千葉常胤を説得し、
味方につけました。正治元年一月に頼朝が亡くなると出家し、
翌年正治二年四月に盛長自身も亡くなりました。享年六十六でした。
三嶋大社:静岡県三島市
三嶋大社の相生松は『安達藤九郎盛長警護の跡』といわれています。
甘縄神明神社(あまなわしんめいじんじゃ):神奈川県鎌倉市
鎌倉幕府有力御家人の安達盛長の屋敷跡という石碑がありますが、
近年では御成町の今小路西遺跡(御成小学校)にあったという説が有力だそうです。
安達藤九郎盛長の墓:静岡県伊豆市
三善康信(みよしやすのぶ)
保延六年(1140年)に生まれました。母親は鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の乳母の妹であり、
その縁から伊豆に流罪となっていた頼朝に月に三度、京の情勢を伝えていました。
康信の手紙が、頼朝の平家打倒の挙兵のきっかけになったといわれています。
鎌倉幕府では初代問注所執事として訴訟の事務を担当しました。
承久の乱では病身の身で評議に参加し、即時の出兵を主張しました。
乱後の承久三年(1221年)に亡くなりました。享年八十一でした。
問注所跡・裁許橋・旧鎌倉御用邸正門:神奈川県鎌倉市
三善康信は初代問注所執事として、訴訟の事務を担当していました。
仁田忠常(にったただつね)
治承四年(1180年)の源頼朝の挙兵に一族とともに加わりました。
石橋山の戦いでは兄・忠俊が戦死し、自身も九死に一生を得ました。
その後平家打倒に武功を挙げ、建久四年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちでは、
兄の曾我祐成(そがすけなり)を討ち取りました。
頼朝の死後は二代将軍の源頼家の嫡男・一幡の乳母父となります。
建仁三年(1203年)の七月に頼家が病に倒れ、八月には重態となった時、
九月に北条時政の命に従い、頼家の外戚である比企能員を謀殺しました。
『吾妻鏡』によると、その後危篤状態から回復した頼家が比企一族の滅亡を知り激怒し、
和田義盛とともに時政追討の命令を受けました。
翌晩比企能員追討の恩賞を受ける為、忠常は時政邸に向かいましたが、
帰宅の遅れを怪しんだ弟の五郎忠正と六郎忠時は、
時政追討の命令が露見したと考え、北条政子邸を襲撃し、五郎忠正は討たれ、
六郎忠時は自害しました。時政邸を出た忠常は騒ぎを知り、御所へ向かいましたが、
謀反の疑いをかけられ、加藤景廉(かとうかげかど)に討たれました。享年三十七でした。
静岡県田方郡函南町:慶音寺(けいおんじ)
仁田忠常・忠正・忠時兄弟のお墓があります。
土肥実平(どいさねひら)
桓武平氏中村流の中村宗平の次男です。
源頼朝の平家打倒の挙兵に嫡男(遠平)とともに中村党を率いて参じました。
石橋山の戦いで敗れ、頼朝らがわずか7・8騎で逃亡した際も、実平が加わっていました。
その後富士川の戦い、宇治川の戦い、一の谷の戦いにも従軍し、
壇ノ浦の戦いの後に、長門国・周防国の惣追捕使として、
長府(現在の山口県)に居城を構えました。文治五年(1189年)に奥州合戦に参戦、
建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、
右近衛大将拝賀の随兵七人のに選ばれました。
建久二年(1191年)に厩の上棟奉行をしている記述(吾妻鏡)を最後に、
史料から姿を消しました。
神奈川県足柄下郡湯河原町:城願寺(じょうがんじ)
JR湯河原駅前には土肥実平夫妻の銅像があり、
近くには土肥一族の菩提寺の城願寺があります。
加藤景廉(かとうかげかど)
加藤氏は元々伊勢国を本拠地としていましたが、平氏との争いの際、
父・景員に従って伊豆国に下り、工藤茂光らの協力を得て土着勢力になりました。
治承四年(1180年)の源頼朝の平氏打倒の挙兵に参加し、
平氏の目代であった山木兼隆を討ち取りました。
その後源範頼に従い、瀬戸内海で平氏を討ち、奥州藤原氏討伐にも従いました。
頼朝に側近として仕え、鎌倉幕府の宿老のひとりとして、
承久三年(1221年)に亡くなりました。享年六十六でした。
加藤景廉一族の墓所:静岡県伊豆市
伊豆箱根鉄道駿豆線沿いに一族の墓所があります。
周囲は田んぼに囲まれていますが、かつて金剛寺というお寺があったそうです。
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清和源氏の嫡流である河内源氏の源義朝の三男として生まれました。
義朝が平治の乱で敗れると伊豆に流されましたが、
北条政子との婚姻を期に、平家打倒に挙兵しました。
その後鎌倉幕府初代将軍となりました。
これにより東国に独立した武家政権が開かれました。
建久九年(1198年)に相模川の橋供養の帰りに体調不良からの落馬が原因で、
五十二歳で亡くなりました。